夢、何処 8
 夜明けの少し前。
 寝静まった鎌倉市中に、押し殺した、息の詰まるような緊張感が広がっていく。
 馬の蹄と小走りに進む足音。衣擦れに金属音。吐き出される荒い吐息。それらがひたひたと青闇を侵していく。
 優に二百を超す軍勢が、まだ濃紺に包まれた市中を突き進む。甲冑に身を包んだ塀が掲げ持つのは、安達の紋を染め抜いた旗印である。先頭に、武者姿の泰盛がいた。
 戦馬具で装った疾風の背に跨る泰盛は、大将に相応しい大鎧をまとっている。緊張に面を引き締めたその姿が軍勢を引きつれてひた走る。
 市中を西から東へと横切った一団は、やがてその歩を止めた。片手を上げて背後へ待機を命じた泰盛が、手綱をさばいて静かに疾風を歩ませる。
 未だ寝静まった街に、微かな蹄の音が吸い込まれる。
 泰盛は、ぐいと顔を上げて兜の奥から前方を睨みすえた。藍色に沈んでいた空がだんだんと明るさを増し、その視線の先に浮かび上がるのは門扉を固く閉ざした館――三浦氏の居であった。
 これから攻め込むべき場所を目前にして、一瞬躊躇うように泰盛の躰が震える。早鐘を打つ心の臓と、滲み出る汗。普段ならばありえぬ反応に、小さく舌打ちした。
 鎧に身を包み武装したとしても、精神までそうはいかない。泰盛の胸の裡を占めるのは、恐怖である。
 初陣は済ませているといっても、このように先頭に立って采配を振るうのはこれが初めてだ。それまでは、彼の名は安達を代弁するものではなく、たとえ少数の兵を率いていたとしても最終的な指揮権は己の上になかった。それだけの責任を担ってはいなかった。
 けれど今、兵の前に立っているのは泰盛自身である。戦自体を決めたのは祖父であり、総大将は父だ。それでも、兵を動かすのは――采配を振るって勝利を掴む責任を負うのは、彼自身である。
 この奇襲に、安達一門の命運がかかっている。成功すれば地位はより一層堅固なものとなり、敗れれば権威は地に墜ちる。それだけの重責が、彼の大将としての力量を問うてくるのだ。怖くないわけがない。
 泰盛は、震え出しそうな身体を叱咤するように唇を噛み締めた。
 こんなところで――退くことはできない。
 鎧をまとい、ここまで来て、今更三浦攻めに反対だと唱えてみたところで埒はあかぬ。
 この戦に見事勝った暁には、より強大化した安達一族の当主の座が泰盛に譲られることが確約される。その地位を得たならば、誰憚ることなく時頼の補佐に就くこともできる。意に沿わぬ戦など、しなくても済む。させなくてすむ。
 誰にも有無を言わせないだけの権力、執権と共に政を動かせるだけの地位。それを安達が――自分が得るための条件がこの戦の勝利であるならば、是が非にでも掴んでみせよう。
 そう、割り切ることにした。もしここで負ける力量ならば、それを願うだけの資格もないのだから、いっそ運試しをするだけだ。
 呼吸を整えた泰盛の表情からは、今や恐怖の色彩は完全に抜け落ちていた。
 泰盛の手が、ゆっくりと腰にはいた太刀の拵にかかる。鯉口の切られたそれが、すらり抜き放たれた。
 無言のまま掲げれば、背後の兵が合図と心得てざわりとゆれた。
 緊張の糸が、極限まで張り詰めてその場を支配する。
 東の空に、陽が昇る。
 泰盛の太刀が、陽光を反射してきらめきながら振り下ろされた。
 ヒュン、と風を切って飛んだ火矢が、塀を越えていく。門扉に突き刺さったうちのいくつかが、消えることなく炎を広げる。
 呼応するかのように、館の裡でときの声が上がった。眠っているかに見えた館のうちから矢が放たれ、押し開かれた大門からは、太刀を振りかざした兵が溢れ出してくる。
「怯むなッ!」
 奇襲をかけたはずなのに迎え討たれた形になった安達の兵に、一瞬動揺が走る。下手をすれば総崩れになりかねない兵を鼓舞するように泰盛が叫んだ。
 自分に向かってくる矢を、太刀を振るって叩き落したぐいと手綱を引いた。
 あれだけ敵対心を剥き出しにしていたのだ、警戒されても仕方ない面はある。兄の泰村のほうは本気で時頼との和を考えていたようだが、弟の光時は兄を含めてそれを信用していなかった節はあった。いつ何があってもいいように、兵を整えていたのか。
 けれど――。
「抵抗してくれるほうが、やりやすいな」
 望まぬ戦といいながらも、泰盛の唇に浮かぶのは酷薄な笑みだ。無抵抗のものを襲うのは、気性にあわない。どうせなら、向かってきてくれるほうが気が楽でいい。
 小さく呟いて馬腹を蹴った。
「何事だ! 何故我らが安達殿に刃を向けられねばならぬ?」
 館の奥から慌てたような声が響いた。刃を交える兵たちの怒号に消されかけてはいるが、泰盛には聞き覚えがあった。開け放たれた扉の向こう側にかいま見えた姿は、寝間着姿の泰村である。
「光時! これはどういうことだ!」
 裸足のまま飛び出してきた泰村が、戦装束で兵に指示を与えている光村に掴みかかった。弟は、さも煩いといわんばかりの仕草で兄を押しのけている。
 切れ切れに聞こえてくる会話に、泰盛は大体の事情を飲み込んだ。
 どうやらこの戦支度は、光村の独断で行われたらしい。守りを固めるには過ぎる武装から考えて、安達に討ち入りでもかけるつもりであったのか。光村は、祖父と似たような思考を持っているようだ。景盛が三浦を嫌う理由が少し、泰盛にも分かった気がした。
「安達殿! これはいかなる事か! 執権殿には和の御言葉を頂いておる。ご存知であろう、疾く兵を退かれよ!」
 門扉の手前まで走り出た泰村が、泰盛に向かって叫ぶ。怖いな、と感想を抱きながらも泰盛は怯まない。
 疾風を進ませながら、叫び返した。
「三浦殿! ならば何故、このような戦支度をしておられるか? 御身に何も疚しいことがないというのであれば、この戦支度、どう説明なさるおつもりだ?」
「それは……し、しかし、執権殿からの和の約束が……!」
 それを無視した暴挙は無体と訴える泰村の表情が、一瞬にして凍りついた。視線は、泰盛を通り越した向こうを見つめている。
 何故、と唇が言葉は、声になっていない。
 愕然と立ちすくむ兄を、光村がいまいましそうに押しやった。
「北条の若造など信用できるか! 言ったろう、安達は討つべきだと。兄上が躊躇っておられるから、先手を打たれたではないか!」
 それは、時頼に対する叛心を、自ら証明する言葉であった。
「ご期待に添えて、光栄だ」
 祖父の言葉は確かであった。そのことに苦笑を禁じえない。
 馬前に立ち塞がった雑兵を斬り伏せ、泰盛は疾風とともに敵陣へと飛び込んだ。
「それが三浦殿の真意とあれば、容赦はしない! 謀反ありと見なして宜しいな!」
 是は我にありと悟った安達の兵が勢いを増す。
 そこへ、背後から複数の足音と馬の嘶きが近付いてくる。振りかえった兵たちから歓声が沸き起こり、三浦勢には動揺が走る。
 泰盛は、振りかえらずに郎党に守られて後じさる三浦兄弟の姿を目で追った。
「謀反人を、討ち取るぞ!」
 雑兵が門扉の向こうになだれ込んでいく。
 背後から来るのは援軍であり、旗印には北条の家紋が染め抜かれているはず――そう確信を抱いて、泰盛は命を下した。



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