夢、何処 9
 刃が肉を断つ鈍い感覚が腕に伝わる。ドサリと倒れ込んだ人影に、泰盛は我に返って眼を瞬かせた。
「殿、如何なされました?」
 耳元で叫ばれて、あまつさえ肩を揺さぶられて、その相手を振りかえる。
 鎧に身を包んだ若武者。折れた矢が刺さったままの身体から流れた血が、衣を朱に染めている。
「――……」
 名を呼ぼうとして口を開きかけたまま、眉根を顰めた。
 辺りを見まわして、多くの死体と、負傷に呻く侍たちを見とめ、ここが三浦の館の前でないことを認識する。刃を交える音や怒号、悲鳴、馬の嘶きは聞こえてくるが、まったく違う場所である。
「殿?」
「――大事ない」
 咄嗟に応えてから、泰盛は己の置かれた状況を思い出した。
 今は宝治ではなく弘安の世。三浦を討ち滅ぼした日から数えるならば、四十年近くの時間がすぎている。
 戦の場となっているのは三浦の屋敷ではなく、安達が居を構える甘縄の地。迫り来る軍勢の旗印に染め抜かれた紋は、北条家の家紋。謀反の疑いをかけられ今まさに討ち滅ぼされんとしているのは、安達一族であった。
「後は頼む」
 雨のように降り注ぐ矢と必至で格闘している若武者に声をかけて、泰盛は踵を返した。はっとした表情になるのに一つ頷いておいて、屋敷の奥を目指す。塗籠の内に入った泰盛は、後ろ手に戸を閉めて息をついた。
 小さな燭台の灯を見つめると、先ほどまで浸っていた記憶が、再び鮮明に甦ってくる。
 三浦氏を滅ぼした後、父や祖父の読み通り安達は一目置かれるだけの名声を手にいれ。有力御家人であった三浦氏の滅亡は、結果的に他の御家人の不満を押さえつけ、執権に対する謀反の心を萎えさせた。
 時頼の政治的能力は次第に誰もが認めるところとなり、執権への信頼は高まっていた。祖父の死去に加え父の急逝によって家督を引き継いだ泰盛も、名実ともに安達を御し、執権の片腕としての力を強めた。北条の後ろには安達あり、と言わしめるまでにもなった。
 時頼と共に願った力。それを手にすることは案外簡単であった。
 しかし。
「兄者――」
 泰盛がそう呼びつづけた相手は、十年以上も前にこの世から去った。後を頼むと言い置いて、呆気なく鬼籍に入ってしまった。 
 泰盛は、薄暗い室内に座り込み、荒く息をついた。身体のあちこちに負った傷が、じくじくと自己主張を繰り返す。
「兄者――、北条は、強くなったぞ」
 時頼の死後も、北条得宗家の勢いは衰えなかった。遺児である時宗は、父に劣らぬ手腕で家臣を掌握し、つい先年には、蒙古の襲来という未曾有の国難を、二度も乗り切ってみせた。
 安達も、強い血縁関係を背後に、できうる限り北条を支え続けた。
 だが、その台頭は、刃向かうもの邪魔となる存在を、たとえ血の繋がったものであっても尽く排除しつづけた結果得たものでもあった。
 外憂をも退けた北条得宗家は、今や朝廷をも凌駕する力を持ち始めている。
 昨年身罷った時宗の跡を継いだ貞時に、もう逆らえるものはいない。――時宗の妻の父、貞時の外祖父として揺るぎのない地位を保持し続ける安達泰盛を除いては。
 館の内外では、相変わらず激しい戦が続いている。そのざわめきは刻一刻と近付いてくる。この塗籠の戸が打ち破られるのも、最早時間の問題だろう。
 泰盛は、半ば感覚の失せた右手の中の太刀を、強く握り締めた。
 安達が謀反を企てている、北条を廃して、己が執権の座を奪おうと目論んでいる――そんな噂が市中に実しやかに流布し始めた時、泰盛はこの結末を覚悟した。
 今、思うままに政を動かすことのできる執権に、真っ向から意見することができるのは、泰盛を置いて他にない。そして、とうとう泰盛は、政にとって邪魔な存在と見なされてしまったのだ。
 謀反の企て――そんなものは、存在しない。泰盛には、北条に成り代わろうなどという気は毛頭なかった。
 けれど、流布する噂を否定することは不可能だ。火のないところに煙は立たぬ――そう断言して、根も葉もない噂を根拠に、北条の、ひいては安達の邪魔となる存在を尽く排除してきたのは、他でもないこの泰盛である。否定することの叶わぬ冤罪。その方法を確立した自分自身が、反論も何も意味をなさないことを一番心得ている。それが、己の首をもしめることになろうとは、思ってもみなかったことではあるが。
「もう、俺が居なくても大丈夫だよな?」
 ここに居ない存在に語りかけるように、泰盛は呟いた。
「そっちに行ってもいいか、兄者?」
 約束通り北条の地位は揺るぎのないものになった。もう、己の手には負えないほどに。
 自嘲気味に笑った泰盛は、伸ばした手で燭台を倒した。
 カラカラと油皿が音を立て、飛び散った油に火が移る。
 瞬く間に燃え上がる炎の中で、泰盛は己の首筋に押し当てた白刃を、躊躇うことなく引いた。





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