夢、何処 7
 上弦にはまだ早い月が、空に浮かんでいる。黒々とした前浜の海に白く映るそれは、すでに天頂を過ぎ、西の山端に触れんばかりだ。
 沈みゆく月を背負いながら、泰盛は海辺の道をひた走っていた。鞍を外し、手綱もつけぬ疾風の裸の背に乗って、ただただ無言で歯を食いしばっている。
 馬具をつけかえる合間に連れ出された疾風は、背にしがみつくようにしている主を気遣いながら、海際の道を左に大きく逸れた。砂浜から続く長く緩やかな坂を、迷うことなく一気に駆け上る。
 一息で市中を走りぬけた疾風は、海を見下ろす大きな館の前でその歩みを緩めた。暗闇にとけ込むようにして囲いの塀から一定の距離を置き、館の裡から零れる灯りの輪の外を慎重に進む。張り番の者の眼に止まらぬように器用に塀沿いに移動して、ようやく足を止めた。
 ブルル……と低く嘶いて、背に乗った主を静かに促す。そこは、執権の館の裏手にあたる茂みの中だった。知らぬ仲ではないにしてもさすかに正面からの来訪が憚られる刻限に、いつも泰盛が塀を乗り越える場所であった。
 手綱すら操らぬままに望みの場所まで導いてくれた愛馬の首に、泰盛はぎゅっとしがみついた。
「いって、くる」
 呟いて表情を引き締めた泰盛は、一息の動きで愛馬の背から塀の上、そしてその向こうへ姿を消した。

 ギッ、と微かに鳴った廊下の音に、時頼は脇息に凭れていた身体を起こした。燭台を軽く引き寄せ、油の残量から大体の時間の見当をつける。真夜中にはすこし早い頃であろうか。
 時折床板を軋ませながら近付いてくる気配が、部屋の手前で止まった。控えの従者は下がらせているから、見咎める者は居ないはずだ。それなのに、躊躇うように動かない気配に、時頼は息を吐く。
「泰盛。早く入って来い」
 当たり前のように押さえた声で呼んでやると、それでもしばらく躊躇していた気配が、ようやく部屋の中に滑り込んできた。
「兄者……」
 戸を閉める仕草で俯いたまま、泰盛は低く声を絞り出した。それ以降言葉の続かない従弟の背中に、時頼は眉を顰める。
 燭台の炎が照らし出す泰盛は、いつもと変わらぬ姿だ。それでも、纏う雰囲気から、時頼は己の抱いた直感に確信を持った。
「そうか――爺様は起つか」
 静かな声で問うと、振り向いた泰盛が一つ頷く。
「いつだ」
「……暁には」
 互いに言葉を喪って、沈黙に空気が澱む。
 気が抜けたように泰盛がその場に座り込んだ。膝を抱えるようにして、身体を縮ませて。
「結局は――」
 動かなくなった泰盛とは逆に、時頼は脇息を押しのけてゆらりと起ち上がった。蹲る泰盛の横に立ち、静かに戸を押し開ける。
「止められはしない、か」
 すでに月の沈んだ闇夜を仰ぐ時頼の表情は、泰盛からは見えない。自分の上に影を落とす従兄の、その苦い声音に唇を噛んだ。
「済まない……、兄者」
「お前の所為じゃないさ。爺様も伯父上も、言い出したら他人の言い分など耳を貸さないお人だ。こうなることは――分かっていた」
 たん、と乾いた音を立てて時頼が扉を閉めた。肌では感じられないほどの微かな風に燭台の炎がざわめき、二つの影が束の間踊る。
「俺には爺様たちを止められないと言われなかったか? 戦が起きてしまったら俺にはどうしようもない」
 事実だから仕方ない、気に病むな、という時頼の言葉に、泰盛はかぶりをふる。
「安達を切り捨てることはできないからと、そう言っていた……」
 苦く告げられて、時頼は方頬だけを歪ませた。
「否定できないのは正直情けないところだが。執権とはいえ――俺個人には何も出来ない。この立場も、北条一門や安達の後ろ盾がなければ誰にも相手にされないからな。俺が執権だから皆が従うわけじゃない。北条の力があるから逆らわないだけだ。それが衰えれば、誰も言うことなんか聞かない。爺様の言い分は正しいさ」
 力を有するのもそれが正当化されるのも、個人の人格によるものではない。
 すべては、家という確固たる存在によって支えられているものなのだ。御家人としてどのように上り詰めるか、それは個人の力量だけではどうにもできない問題だ。
「お前は北条の郎党ではなく安達の嫡男。まずは安達の安泰こそに心を配るべきだ――そう言われたんだろう?」
 祖父から投げつけられた言葉を繰り返され、泰盛は弾かれたように顔を上げた。
「それは……ッ!」
 思わず声を荒げて、だがその後に言葉が続かない。何かを言いたいのにそれが何か掴めないもどかしさだけが胸の底にたまっていく。
「俺は――兄者が望まない戦なんか、したくない」
 出てくるのは、今さらどうしようもない思いだけだ。
「でも、どうしようもなかった……」
「お互いに、な」
 被せるように言い、時頼は静かに従弟を見下ろした。
「俺は名ばかりの執権だ。己の意思を貫くことすらできん。お前も、人を動かせる立場にない。――ただ」
 ただ、といって言葉を切った従兄を、泰盛が仰ぐ。
 視線が交錯し、時頼が口端を持ち上げた。浮かぶのは、どこか不敵な笑みだ。
「ただ――それは、現在のことだ」
「いま」
「今だ。未来のことじゃない。今どうしようもないと泣くくらいなら、この先泣かなくてすむように動こうと思ってな」
 泰盛は、瞬いて従兄の言葉を待った。
「挙兵すれば、執権は安達につく。安達と三浦、正直今の俺にはどちらが欠けても痛い。痛いが、それは仕方ない。その代わり、お前が責任を持ってその埋め合わせをしろ。他の御家人共がなんと言おうが、力ずくで事を起こす必要もなくなるくらい、安達を強くしろ」
 理解るか、と言外に問われ、一瞬伏せられた泰盛の瞳に力強い光が戻る。
「理解った」
 そう返した泰盛の口元にも笑みが浮かぶ。
「精々、お前の手に転がり込むまでに、安達の家が大きくなるように祈っておけ」
「なら兄者は、俺が支えるに見合うような、立派な執権になってくれ。担ぐ旗が貧相では話にならないからな」
 顔を見合わせて、二人は笑う。いつか、本当に笑えるようになるために、今。
「じゃあ、行ってくる」
 吹っ切れたような従弟の声に、時頼が深く頷いた。
 泰盛は軽やかな仕草で立ち上がり、互いの意識を確かめるように視線を交わしてから、するりと闇夜の向こうに滑り出ていった。
 瞼を伏せて遠ざかる気配を追っていた時頼は、表情に厳しさを滲ませて泰盛の消えた戸を押し開いた。
「誰か居ないか。実時殿に使いを出せ。火急の用向きがあるゆえお越し願いたいと。急いでくれ」
 従者が早馬を、と呼ばわる声を聞きながら、低く呟く。
 今はまだ――と。
 今は安達が起こす三浦との戦すら、止めることも叶わない。祖父の言う通り、安達の非を咎めることもできず、三浦が討ち滅ぼされるであろう結果を受け入れなければならない。
 結局気づかされたのだ。本意であろうがなかろうが、まず大事なのは、己の手中にある執権という力を、いかに自分のものにしていくかだということを。
 周囲に有無を言わせぬだけの力を持たなければ、彼自身は飾り物であるに過ぎない。
 この戦で安達が負けることは、おそらくない。そして、これまで以上に発言力を増していくことだろう。
 ならば、その力を取り込んでしまえばいい。取り込めるだけの懐を、こちらが備えればいい。その覚悟がようやく、決まったのだ。
 時頼は、握り込んだ拳に力を篭めた。



←6   Index   8→