「三浦を、叩くぞ」
部屋に入るなり何の前置きもなく告げられた内容に、泰盛は戸を後ろ手に閉めながら無言のまま父と祖父を見返した。
驚きは、ない。否、この一月余りの状況から考えて、戦支度にそれ意外の理由は思いつかない。
「不満そうだな」
鎧を着込んだ父の声には、普段の何倍もの威圧感があった。気圧されて竦む躰とは裏腹に、戦上手と謳われる安達一族の大将とはこのようなものなのかと、どこかずれた感想が頭を過ぎる。
「兄者は――執権殿は、三浦殿との戦は望んでおられません」
ここまで歩いてくる間にいくらか動揺の収まった泰盛は、用意していた言葉を二人にぶつける。
「三浦殿を叩くと仰るならば、これは安達の勝手な戦となります。それは法度のはずでしょう? 何故、そこまでして三浦殿を相手にせねばならぬのですか?」
下座に座した泰盛は、並んで座る父と祖父とを見遣った。時頼が何を望んでいるか知らぬはずはないだろうと、言外に問いかける。
「分からぬか?」
睨みつける視線に、いっそ穏やかすぎる言葉が返って来た。幼子を宥めるような声音だったが、泰盛は虚勢が崩れるのを感じた。
「分からぬのであれば、我が孫とは思えぬ痴れ者だな。確かに今の時頼は戦を望んではおらぬ。だがそれに従えば、安達は滅ぶぞ」
追い討ちをかける言葉に、知らず瞠目する。早鐘を打ち始める心の臓の音がやけに煩い。
何故、という思いが脳裏を埋め尽くした。
色を喪った孫の顔に鋭い一瞥をくれてから、景盛は甲冑を鳴らして立ちあがる。泰盛は視線を外すこともできずに、その動きを追った。
「もし我らが大人しく三浦との和を受け入れたとしよう。そうすれば、今度は三浦が、己が地位の安寧を確かなものにするためにこちらを潰しにかかるだろう。よいか――泰盛。我ら安達にとって三浦が邪魔なように、奴らにとっても我らは邪魔なのだ。いつかぶつかるのが定めならば、こちらが先に叩くまでだ」
夏の短い夜である。戸の隙間から室内に吹き入る風はいまだ昼間の熱を抱いている。それだのに、夜風に背を撫でられた泰盛は走りぬけた悪寒に肌を粟立たせた。
ガシャンと鎧を鳴らした景盛が、泰盛の正面に立つ。厳しい視線を受け止め損ねて、泰盛は逃げるように瞼を伏せた。
「お前には、幼き頃より経時や時頼に仕えるよう教えてきた。だが、お前は北条の郎党ではなく安達の嫡子だ。何を第一とするか、儂の言うておる意味はわかるな?」
将軍に忠誠を誓うのも執権たる北条得宗家と友好関係を維持するのも、すべては家の安寧を守るためである。安達という一門が存在しなくなるのであれば、忠誠もなにもあったものではない。
何を最優先とすべきかは――最初から決まっている。
「しかし・・・・」
それでも否定的な言葉を紡ごうとする泰盛に、父と祖父は眉宇を吊り上げた。まだ何かいいたいことがあるのかと、怒りさえ感じられる視線を今度こそ受け止めて、顔を上げる。
乾いた唇を舐めて、息を吸う。
「執権殿は戦を望んでおられません。ならばこれは、安達の起こした私事の戦ということになりませんか?」
法を犯せば、それ相応の処罰は免れぬ。たとえ戦に勝利したとして、その後地位を剥奪されたのでは意味がない。
「そうはならぬ」
家の安寧を望むのであれば、執権の意に添わぬ戦は益をなざぬはず――そう、淡い期待を込めた泰盛の言葉は、一言の元にかき消された。
「安達がことを起こせば、時頼は必ず我らにつく。時頼には――我らは切れぬ」
「安達は義時殿の代より北条と懇意にしてきた。何より時頼の母は我が妹。一度は敵方についていた者と我ら安達と、どちらを切るかなぞ天秤にかけるまでもあるまい」
一体何の為に今の関係を築いたと思っている。二人の言葉の外に、その思いがはっきりと読み取れた。
泰盛は息を呑んだ。呑むしかなかった。
「お前はもう少し、政というものを知るべきだな」
「夜明け前に起つ。仕度をしておけ」
最早何の言葉も見つからない泰盛を置いて、景盛は塗籠の戸に手をかけた。甲冑の留め具が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
観音開きの戸がいっぱいに開かれると、夜気と共に外のざわめきがなだれ込んでくる。押し殺してはいても隠しきれない緊張の糸がそこかしこに張り巡らされているようで、不用意に触れることのできない危うさに満ちている。
祖父の歩み去る背をぼんやり見ていた泰盛は、廊下に立ち止まったままの父の気配に気付き、緩慢な動作で視線を巡らせた。
「泰盛」
煌煌と焚かれた火を背負った父の表情は見えない。名を呼ばれても合わせることが出来ない視線は、うろうろと顔の辺りをさまよった。
「早く支度にかかれ。先陣はお前にまかせる。今更泣き言は聞かんぞ。安達の嫡子たる自覚があるなら、覚悟をきめんか」
父としてではなく当主としての命令を下し、義景も去っていった。
己へ命じたのと同じ声が郎党へと指示を飛ばしている。それを意識の端で辛うじて認識しながらも、泰盛は父の居た場所から視線を動かせないでいた。
その背後で頼りなく室内を照らしていた燭台の灯が不意に消える。数瞬おいて吹きぬけた突風が、泰盛の着衣をぶわりと持ち上げた。開いたままだった扉が、勢いよく動き音を立てて閉じた。
光源を失い闇に沈んだ部屋の中で、突風で床に落ちた調度品がカラカラと乾いた音を響かせる。その余韻が消えた頃、泰盛はゆらりと立ちあがった。