桜の若葉もその色を濃く深め、真上から降り注ぐ陽光を受け止めている。
ひっきりなしに鳴きつづける蝉の音はどこへ行ってもつきまとい、肌に感じる暑さを否応なしに上げていく。
本格的な夏が訪れた。
元々寒さよりも暑さに対応させた板張りの風通しの良い建物でも、気温を下げることはできない。時頼も、汗で湿る布地の不快さに眉を顰めつつ、執務室のいつもの場所に座していた。
「一体、安達のご隠居殿は我らに何の恨みを持っておられるのですか! 気に食わぬ、面白くないなどという理由で目の敵にされるのでは、堪ったものではありませんぞ」
室温がより上昇しそうな声で怒鳴った男が、下座からじりっと時頼に詰め寄ってくる。
内密の話をと言われ、人払いをし閉めきった室内に響く声音に、時頼は不覚にも一瞬眩暈を覚えた。
「光村、そう熱くなるな。我らの立場もわきまえろ。執権殿に怒鳴った所で、解決にはならん」
今にも時頼に掴み掛からんばかりの男を、隣に座した男が一喝した。
「三浦殿――」
肉体的よりも精神的に大きく傾いだ身体を何とか立てなおし、時頼は初老の、かつては逞しい武将だったことを感じさせる男に視線を向けた。
「弟がご無礼を。ですが、私も安達殿の態度を快く思ってはおりません」
視線を受け止めてはっきりと告げられたその言葉に、時頼は静かに息をついた。
時頼の前に座する彼らこそ、三浦氏の当主泰村とその弟光村である。
景盛が鎌倉に舞い戻り、当然のように居座り続けてからこちらの一月、三浦氏に対する風当たりは一気に強くなった。
元々三浦氏の台頭を快く思っていなかった者たちが、その筆頭である安達氏の強い態度に共鳴した結果である。また、情勢を見守っていた多くの御家人達が安達の大入道の機嫌を伺い、そちらに与するようになったせいでもある。
三浦泰村も充分老獪と呼べる年齢に達しているが、景盛はそれを小僧呼ばわりしてしまうような人物だ。家督こそ譲ってはいるが三代執権泰時の頃からの重鎮であり、また現執権の外祖父という、公的にも最も強い立場を持つ人物が、憚ることなく三浦氏への不審感を口にするのだから、その影響力は大きい。
彼が鎌倉に戻った時から、市中に吹き荒れる風の向きは大きく変わり始めていた。
「確かに、我々が昨年の騒動で名越殿と行動を共にしていたことも、それを裏切る形で執権殿に与したことも、事実です。その時は、あなたが執権の座にあることを快くは思っていなかった。ですが、今我々が信用ならぬと決めつけられるのは、多いに不本意だ」
余程腹に据えかねているのか、泰村は弟を諌めたその口で、息も荒くまくし立てた。
「三浦殿のお気持ちは良く分かります。――ですが」
文句があるなら直接当人に向かって言えばいいものを、と、油断すれば口をついて出そうな本音を危うく飲み下しながら、時頼は殊更に穏やかな口調を心がけた。
「少なくとも、私は三浦殿を高く評価しております。そうでなけでば、昨年使者を遣わすことはなかったでしょう。それでは、ご不満ですか?」
多少の嫌味も込めて、時頼は泰村を見据える。ここで何か反論を口にすれば、泰村は自身の価値を落とすことになりかねない。
しばらく、その場に沈黙が落ちた。
言葉の真意を探るような、ひどく懐疑的な視線が、時頼の肌を滑っていく。値踏みされる不快感に堪えて、時頼はそれらを受け止めた。
閉ざされた空間に、それでも防ぎきれなかった蝉の声が入り込んでくる。頭の奥に容赦なく響くそれが、蝉の声なのか耳鳴りなのかも判別がつかなくなりかけた頃、ようやく泰村が口を開いた。
「分かりました」
すぅ、と蝉の声が遠ざかり、時頼の身体を包み込んでいたなんとも言えぬ圧迫感が引いていく。
「あなたが安達殿と意見を異になさるというのではれば、その言葉、信じましょう」
「そうであれば、安達殿の不快極まりない態度を、是非とも諌めていただきたいものですな」
「光村、そのようなことを申すでない。儂が信じるというのでは不満か?」
兄に比べて気性の荒いらしい弟は、自分の半分以下の年齢でしかない時頼を胡散臭そうに見遣った。安達の傀儡ではないのかと言外に匂わせる口調に、無言のまま時頼が眉根を寄せる。
「執権殿、いきなり押しかけて失礼を致しました」
険悪になりつつある空気に慌てたように、泰村が弟を諌めた。反発するように表情を歪め口を開こうとした光村を視線で制しながら、泰村は暇を切り出す。ある程度の言質をとった以上、これ以上弟が何か言い出しては堪らない、といった様子だ。
「いえ、三浦殿、こちらこそご足労をお掛けしました」
時頼にしても、居心地の悪い状況に嫌気が差し始めた所であったから、鋭い視線を投げかけてくる光村を無視して泰村に頭を下げた。
「光村、失礼するぞ」
有無を言わせぬ口調で促してくる兄と、視線を合わせようとしない執権とを交互に眺めてから、弟は不敵な笑みを唇に浮かべた。
「執権殿、今のお言葉、くれぐれも、お忘れになられぬよう――」
低く囁くように言って、ゆらりと立ちあがる。
「光村!」
思わず声を荒げた兄にも皮肉な笑みを向けてから、光村は身を翻して執務室を出ていった。ご無礼を、と呟いた泰村が慌てて弟を追う。
閉め忘れた戸口から生暖かい風が吹き込んだ。熱を帯びたそれは、澱んで倦んだ空気を連れ去ってはくれず逆に不快感ばかりが増していく。ほう、と息を吐いた途端、背中を伝う汗と肌に纏わりつく布地の感触を思い出して顔が歪んだ。
「大事無いですか?」
声を掛けられて顔を上げ、相手の顔を数瞬眺めてから、時頼はようやくその人物を認識した。頭の中まで侵す熱を振り払うように大きく頭を振る。
「――実時殿……」
喉にひっかるように声が掠れ、時頼は驚いて右手をあてて空咳を繰り返した。
「ここは閉めないほうがよさそうですね。冷たい水でも運ばせましょう」
顔色が優れませんよ、と言って実時は部屋を出ていった。時頼がぐったりと脇息に凭れかかっていると、手づから水を満たした碗を持って帰ってくる。
「済みません……」
冷水で喉を潤した時頼は、尚も掠れる声をもう一度空咳で誤魔化してから礼を述べた。水気を口にしたお蔭で、気分は少しだけ落ちついている。
「この暑さで参ったのでしょう。先ほどのお二人の熱気に中てられたのかの知れませんがね」
「そう――かも知れません」
残滓のように身体の周りに纏わりつく空気を振り払おうとして、時頼は緩く首を振った。
光時の纏う、ほとんど殺気とも呼べる空気を正面から浴びて、正直気が滅入っている。ぶつけられる感情というのは、たとえそれをこちらが予期していたとしても辛いものがあった。
「私も、折衝役をお受けしたというのにどうすることも出来ないありさまで……申し訳ありません」
景盛が鎌倉にいついてからこちら、実時は幾度となく安達と三浦の屋敷を往復している。だが、景盛はこちらが何を言おうとも取り合う気配を見せず、その態度に全く変化がないことに三浦兄弟は業を煮やしていた。調停役は実時であり、そちらを通すことが筋と重々承知して尚、直接時頼にねじ込んでくる程度には我慢も限界に達しているらしい。
「これが安達殿の思う通りの運びだとすれば――私どもでは到底押さえようがないということでしょうか……」
口調に疲労を滲ませて、実時は力なく微笑んだ。時頼も何も返す言葉が見つからず、ただ実時と同じ表情を口元に浮かべるしかなかった。
そして――彼らの関与し得ぬところでまた一つ、歯車が軋みをあげて廻り始めるのである。