時頼が予感していた不穏な波は、しかし、彼の思ってもみなかった方向から突然にやってきた。
そろそろ桜も散り、枝からは青々とした若葉が顔を覗かせる季節のことである。
「時頼殿。高野山から書状が参ったと伺いましたが?」
執務室で書物をしていた時頼は、来訪を告げられた実時を迎えるために筆を置いた。上げた表情は、麗らかな午後の陽気さえ凍てつかせるほどに不機嫌である。
実時は、おや、というように僅かに片眉を上げたが、無言のまま時頼の言葉を待った。
「安達の爺様からです」
仏頂面を取り繕おうともせずに、時頼は届いたばかりの書状を差し出した。
「安達の――景盛殿ですか・・・・」
実時は、書状と時頼の顔とを交互に見て静かに嘆息した。
安達景盛――時頼の母方の祖父、そして泰盛の祖父にもあたる人物は、自他ともに認める豪傑である。今は息子の義景に家督を譲り、出家して高野山に引きこもっている。
その、豪傑で名を馳せたとはいえ出家の身である老人が、一体何を言ってきたのだろうか。
ぱらりと書状を開いた実時は、武骨な武人に似合わぬ流暢な文字を追った。一行読むごとに、表情が強張りを帯びる。
「これは――」
几帳面な性格の実時は、動揺を隠せない声を洩らしながらも丁寧に書状を折り畳んでから、座した時頼を見遣った。
「厄介なことになるかもしれませんね」
「安達の爺様のことだ。俺などが何を言っても聞いてはくれないでしょう。下手に止めだてして機嫌を損ねれば、逆に勢いづいてしまうかもしれません」
幕府の要職にある二人を悩ませる高野山からの文――そこには、大した内容が記されていたわけではなかった。
山に篭もりきりで京や鎌倉の世情にも疎くなった。経時の弔いにも時頼の執権就任の祝いにも顔を出すことが出来なかったが、それでは礼儀知らずもいいところである。この辺りで一度そちらに顔を出すつもりである――という旨が、短い文面で伝えられているだけである。
だが、書状を前にした二人の表情からは、それだけ、という楽観的な雰囲気は一切読み取れなかった。
「景盛様がいらっしゃるとなれば・・・・これはひと騒動起きると考えていたほうが無難でしょうね」
「本当に顔を見せるだけで帰っていただければ良いのですが・・・・」
そうはならないと、二人ともが確信している。
景盛は――出家し、公的には隠居の身であるが、未だ安達一門の長であることは間違いない。家督を継ぎ、公的には当主である義景も、父親の意見をおいそれと聞き流すことはできないのだ。景盛が黒といえば白も黒く変わるし、起てと命じれば安達の兵数千は総て起つ。
久し振りに孫の顔を見たいなどといっているが、昨今の三浦氏の台頭に危機感を覚えての鎌倉入りと考えるほうが自然である。
そして、彼の老人が何かを言ってきたとして、当代一と謳われた荒武者を御せるような人物は、この鎌倉には存在しない。事実上の最高権力者たる時頼も、血縁の上では彼の外孫の一人である。精神的な立場はすこぶる弱い。
「お止めするのは――無理なのでしょうね」
ほとんど事実を確認するに近い口調で、実時が呟いた。
「爺様のこと、こちらの許可など待ってはおられないでしょう。とうに山を降りてこちらに向かわれているはず。今日明日にでも到着すると思って間違いないのでは」
「書状の方が先に着いただけ、良かったと考えるべきですか・・・・」
たった一人の人間が起こすであろうこの先の嵐を予感して、重い溜め息が二つの唇から零れ落ちた。
だが、二人の沈鬱な予想を裏切って、景盛到着の報せはすぐには舞い込んではこなかった。
書状が届いてから五日、報せを今か今かと待ち構えていた二人には、肩透かしに近い時間が流れた。
よく考えてみれば、書状にはすぐに来るとは書かれていなかったのだ。もしかしたらこちらの取り越し苦労で済むかもしれない――と二人が思いかけた頃、それを狙ったかのように凶報はもたらされた。
「安達の泰盛殿がお見えになっておられます。すぐにでもお会いしたいと仰られておりますが、いかがなされますか?」
夕餉もすみ、自室で実時から明日の評定の議題について説明を受けていた時頼は、遠慮がちに掛けられた従者の声に眉根を寄せた。
険しい表情のまま時頼へと視線を向ける。
「景盛殿のこと――でしょうね」
視線を受けた実時も、胃の腑に鉛を飲んだような表情を浮かべる。
「すぐにここに通してくれ」
従者が慌ただしく去っていく。
「もしかしたら、などと期待していたのが間違いでしたか」
いいつつ、実時は手早く文机を脇へ追いやった。
しばらくして、二つの足音が足早に近付いてきた。
実時が、訪問者を迎えるべく戸を押し開く。
「兄者――ああ、実時兄者も一緒か。都合がいい」
実時の姿に一瞬目を見張った泰盛だが、どこか安心したような表情を浮かべる。その肩は大きく上下しており、息を吸い込んだ拍子にひどく咳込んだ。
「大丈夫か」
「これくらい、平気だ。少し慌ててたからな
・・・・」
もう一度大きく息を吸い込んで、泰盛は無理矢理に呼吸の乱れを押さえ込んだ。
部屋に上がった泰盛は、前置きなど無用とばかりに用件の核心を短く告げる。
「爺様がさっき、鎌倉に着いた」
予想していた報せに、年長者二人は何ともいえない表情で目配せを交わした。
「親父も爺様も、兄者への挨拶は明日だと言うんだが、何かあったら報せろといわれてたろう。宴の仕度の合間にこっそり抜けてきた」
すぐに戻るからと呟いた割に、泰盛は疲れたようにその場に座り込んだ。余程急いできたのだろう、泰盛が息を切らすこと自体がひどく珍しいことである。
「二人の話を聞いたんだが、どうも、爺様は親父に呼ばれて来たらしい。山に篭もってるのをわざわざ呼び寄せたんだから、何か企んでるぞ。三浦がどうとか言ってたしな」
実の父と祖父に対して企むという言いかたは無礼極まりないが、言った方も聞いたほうもまるで気にしてはいない。それどころか、一層表情を引き締める。
「景盛殿は、何と仰せでした?」
三浦と聞いた実時の眉がきつく寄せられる。顔をあげた泰盛は、一瞬考えるように視線を泳がせてからゆるくかぶりを振った。
「何とも。でも、親父とこそこそ話してたのは確かだ」
言って、泰盛は唇を噛んだ。
「親父と爺様が動いたら、俺じゃ止められないぞ」
だから慌てて報せに来たのだと、従兄に視線を向ける。
「これでも、執権に就いて一年になるんだ、どうにかしてみるさ」
ひどく不安そうにこちらを見る従弟に、時頼は不敵に唇を吊り上げて見せた。その表情に、泰盛は目に見えて肩の力を抜いた。
「じゃあ――後は任せて構わないな? 俺は帰るぞ。抜け出したと知れたら大目玉だからな」
よいしょ、と、やけに老けた声とともに起ちあがった泰盛に、実時が目を細める。
「気をつけて帰ってくださいね」
「もう子どもじゃないぞ、実時兄者」
幼子に言い聞かせるような口調で言い渡されて、泰盛は口を尖らせて憤慨する。その顔からは先ほどまでの強張りは消えていた。
形ばかりの会釈をして、泰盛はふわりと舞うような動きで部屋から滑り出ていった。
「そういうところがガキだっていうんだ――。実時殿、いくら夜分とはいえ、あいつを襲うような命知らずはこの鎌倉には居ませんよ」
泰盛の去った部屋で、思いの他真面目な声音で時頼が呟く。
女子どもをも容赦なく襲う夜盗の類でも、駿馬を駆る泰盛に手を出すことはない。万一――行き合ったとしても互角に刀を交えることなく叩き伏せるだろう。
「ええ、その点では心配していませんよ。自分の命を大切にしてくれる輩相手なら――ね」
「大丈夫です」
時頼は、実時の物言いを言下に否定してみせた。
最近、鎌倉は、市中といえども夜盗やら何やらが出没する物騒な場所になりつつあった。
実害が御家人層にまで及んだという話は聞かないが、治安の悪化は本当である。これも執権の政が不甲斐ないからだ――という声もちらほらと聞こえ始めている。
それが本当に只の夜盗なのか――と、実時は疑いを抱いているのだ。市中に夜盗がでるという、時頼にの政の不備を訴えるには格好の材料である。また、そのようなものの仕業に見せかけて目的の人物に危害を加えることも可能ではないか――。
「安達の泰盛といえば、執権殿の懐刀。それが――」
「実時殿!」
皆まで言わせず、時頼が声を荒げた。その、無理矢理不安を否定するような響きに、実時は言いすぎたかと視線を伏せる。
「まぁ――私としては、貴方も泰盛殿も危なっかしくて目の離せない子どもと同じなのですがね」
「実時殿・・・・」
謝罪の代わりにそう告げると、時頼は憮然とした表情を浮かべることで実時の意図を汲み取って見せた。
「さて――」
それに小さく笑ってから、実時は端正な面を違う意味で引き締めた。
「泰盛殿に任されてしまった以上、これからどうなさいますか、執権殿?」
春に似合わぬ肌を刺す冷たい風が一陣、部屋の外を唸りをあげて吹きぬけていった。