夢、何処 1

 鎌倉に幕府が開かれてから約五十年。正当な源氏の血筋は僅か三代で途絶え、京都の朝廷から摂関家の人間を招いて将軍職を任せるようになってから、二代が過ぎた。
 初代将軍源頼朝の妻政子の一族である北条氏は、その外戚関係を利用して、幕府の中で力を伸ばしていった。
 頼朝の死後、彼の子供たちが将軍職に就くと、北条氏は後見役である執権という立場を得た。代を重ねる毎に執権の権力は増大していき、将軍と執権をそれぞれ五代数えた現在では、鎌倉すなわち幕府の頂点に立ち、実質的に政を牛耳っているのは北条氏一門となっていた。
 その中でも、二代執権北条義時の嫡流で、執権を務める北条氏の宗家を、特に得宗家と呼ぶ。


 初春の、まだ冷たい空気が、木々の生い茂る鶴岡八幡宮の境内を清清しく洗い清めていく。一点の曇りなく晴れ渡った空が、肌に感じる寒さを増していて、ここが神域でなくとも身の引き締まる思いのする天気である。
 普段は静かな境内が、この日はひどくざわめいていた。多くの人間が行き交い、賑やかな話し声が木々の間を抜けて聞こえてくる。
 賑わっているのは、八幡宮の舞殿南側を東西に走る馬場の付近である。直垂烏帽子姿の武士たちが、思い思いに立ったり座ったりしながら、雑談を交わす姿が見える。
 そのざわめきが、一際大きく膨らんだ後ゆっくりと静まっていった。綺麗に整えられた埒の外側を、乗馬し弓矢を背負った数名の武者と、それを引き連れた行列が静かに進んでくる
 これから、八幡宮の正月の神事の一環として遠笠懸奉納が行われるのだ。
 鶴岡八幡宮への武芸の奉納の起源は、八月十五日の放生会の際、かつての征夷大将軍源頼朝が流鏑馬を執り行ったことまで遡る。時は文治三年、頼朝が征夷大将軍に叙せられる五年前の話であるが、その時、かの西行法師に宮廷風の流鏑馬の方法を問うたことは広く知られている。以来、神事として武芸を奉納することが、鎌倉武士としての立派な務めとされている。
 騎射――文字通り馬上から的を射る技術は、武士としての基本的な嗜みである。流鏑馬も遠笠懸も、弓手、つまり馬上から見て左手側に的を置く。作法としては、手綱を放した不安定な馬上から、さらに左に躰を捻った体勢で矢を放つことになる。笠懸は文字通り直径二尺ほどの笠が的となる。
 乗馬した射手と、的や弓袋などを携えた供人、儀式を取り仕切る行事、奉行などからなる行列が、八幡宮の境内を東西に横切る馬場をゆっくりと進み、顔ぶれを披露していく。
 その中でも一際目を引くのが、小奇麗な直垂に夏鹿毛の行騰をつけ芦毛の馬に跨った若武者だった。
 安達泰盛。鎌倉幕府の中枢を担う御家人の一つ安達家の嫡男であり、本日の栄えある一番射手を務める青年である。
 行列は馬場を一往復して、扇型に広がった西の馬場末に納まった。人の並びが崩れ、的持ちや的奉行などが各々の持ち場へと散らばっていく。
 泰盛は手綱をさばいて馬を落ち着かせながら、馬場を囲む見物人たちに視線を向けた。幕府の要職につく、有力御家人たちの顔ぶれが揃っている。
 少し伸び上がるようにすると、馬場の中央付近左手側に設えられた桟敷が見える。奉納の進行を行う奉行所と、鎌倉の最高権力者たる将軍の席である。泰盛は、奉行人たちが将軍への挨拶を済ませ、持ち場につくのを眺めていた。
「一の射手、安達泰盛殿!」
 奉行が泰盛の名を呼ぶ。それを合図に、轡取りの者が泰盛の馬を引き、埒の外を馬場元へ向かって歩き始める。将軍と奉行の桟敷の前で礼を取り、あらためて、奉行から武芸奉納の命令を受けるためだ。
「泰盛、自信はあるか?」
 馬上から目礼した泰盛に、子供特有の舌足らずな声が投げかけられた。顔を上げると、十にも満たぬ子供が、不安そうに見開かれた大きな瞳でこちらを見つめているのにぶつかった。
「頼嗣様、もちろんです。一つも外しませんから安心してご覧になっていてください」
 泰盛が笑って頷くと、つられたように子供の頬が綻んだ。
 この少年こそが、現在の鎌倉武士の頂点に立つ五代将軍、九条頼嗣である。元服し、将軍職を父である四代将軍から引き継いだのが、今から二年前のことだ。
「そうだな、泰盛だからな。楽しみにしているぞ」
 もう一度目礼した泰盛は、あげた視線を隣の奉行席の方に向けた。そちらには若い男が座している。五代執権北条時頼、彼にとっては母方の従兄にあたり、幼い頃から共に育った兄弟のような人物である。
「射手としての誉れを飾るように」
 今回の神事を取り仕切る、総奉行役でもある時頼の言葉に、泰盛は一つ頷いた。視線が交わる瞬間に口端を軽く持ち上げると、時頼の眉根がわずかに寄る。自信を示したつもりだったのだが、どうやら呆れさせてしまったらしい。
 泰盛の乗った馬は、ゆっくりと馬場を歩んで、出発点である馬場元にたどり着いた。後続の射手たちも順次到着する。
 愛馬が、二度三度と首を振る。人の多さに気を荒げるような性格ではない。落ち着かないというよりは、走り出したくて気が急いている仕草だ。
「泰盛様、馬慣らしをなさいませ」
 轡取りの供人が、泰盛を扇型の中央へ導いた。馬場の感触を確かめるために、射手は一度軽い試し乗りを許されている。彼は弓を供人に預け、人の消えた馬場を見据えた。
 愛馬が二歩三歩と歩き出す。軽く手綱が引かれるのを合図に、疾風の名を持つ芦毛の体が馬場に飛び出した。
 泰盛は、近づき遠ざかる的との呼吸を確かめるように、疾風の走りを図っていく。明け方降った小雨のために、馬場の土が少し緩んでいるようだ。足をとられることはないだろうが、いつもの感覚とは僅かばかりずれるかもしれない。
 百四十間を走り抜けて、愛馬の首筋を一つ叩いた。
「どうだ、疾風? やっぱり少し緩いか?」
 疾風が、軽く頭を傾けて背の上の主を見る。大きな眼が片方、確実に泰盛を捉え、二度三度と瞬いた。そのままこれ見よがしに長く息を吐いてから、ゆるりと馬首が前方を向く。
「そうか。頼むな」
 泰盛は愛馬の反応を間違いなくとらえ、苦笑を半分ほど含ませて頬を緩めた。
 足場の悪さを気遣った主への反応は、人の言葉に直すなら、問題ない、の一言だ。むしろ、これくらいの変化になど影響されるわけはないと、反論されたに近い。
 今度は詫びるために首を叩いてから、埒外を通って馬場元へ引き返した。その姿に観衆の視線が半ば値踏みするように集まっていく。
 首筋の産毛を撫で上げるような緊張感が、馬場全体に高まっていくようだ。
 騎射奉納は、武芸披露の余興である以上に幕府御家人としての名誉――家や一族としてのものでもある――を背負っている。見事三つの的を射抜いてみせれば、鎌倉一の弓の使い手という誉れが手に入る。だがもし失敗れば、個人の武士としての名折れ以上に、一族全体の体面が傷つくことにもなりかねない。失敗はすなわち、その一族に武芸の達者がいないという評価にもつながるからだ。
 そして厄介なことに、泰盛が背負う安達という家は、少々どころではなく重いものだった。実際のところ、彼に向けられる視線には、期待や不安といった正の感情と同程度、いやむしろ上回るほどに騎射の失敗を願う感情が込められている。
 期待も悪意も綯い交ぜの視線を集めたまま、人馬は悠々とは馬場元へたどり着いた。入れ替わるように二の射手が馬に鞭を入れ、その向こうでは三の射手が緊張に青ざめた表情を浮かべている。泰盛より十ほど年上の武者だが、手綱を持つ指先に不自然なまでに力が入っているのがよくわかった。籠手に包まれた指先が、白く血の気が引くほどに手綱を握り締めている。
 泰盛の場合、緊張感の中で高まってくるのは、気を抜くと頬が緩んでしまいそうなくすぐったい感覚だ。そこには、纏わりつくような悪意を気に留めないだけの、自分の技量への絶対的自信がある。
 供人が差し出してくる弓を受け取って、弦の張りを軽く確かめる。上がりそうになる呼吸と鼓動を抑えるために、小さく弦を弾き鳴らした。ポン、ポン、と殊更にゆっくりとした拍子で弾かれる音が、物の怪を祓う弦打ちのように興奮を鎮めていく。
 疾風が、逸る気をもてあましたかのように足を踏み鳴らした。小刻みな揺れに合わせて、泰盛が背中に負った箙と中の矢がカタカタと音を立てる。それがだんだんと一定の拍子を刻み始めると、揃ってやることは同じかと口端に苦笑が浮かんだ。
 馬場では、笠を掲げた的の具合や、馬場の状態がもう一度確かめられている。
 観衆たちも、整えられていく場の雰囲気に呑まれるように息を潜め始めた。
 馬場元馬場末それぞれの奉行が、馬場が整ったことを告げる軍配を大きく振った。
「一の射手、安達泰盛殿!」
 大声で射手が呼ばれ、その声に応じて泰盛が進み出る。しん、と静まり返った観衆の視線が、総て一人の若武者に注がれた。
 右手の中で、手綱がキリリと音を立てた。
 軽く双眸を伏せ、疾風との呼吸を合わせていく。痛いほどに注がれる大勢の視線の感覚が、ふいに遠のいた。瞼を上げれば、まっすぐに伸びる馬場と、風に揺れる的の笠だけが意識の中に入ってくる。
 ぐっと両足に力を入れ、鞍から腰を浮かせる。重さの移動を感じ取った疾風が、ゆるりと頭を下げながら二歩三歩と歩き出す。少しずつ速まる揺れに上体を合わせ、大きく息を吸い込む。
 ハッ、と鋭い気合を発した泰盛は、絡まる視線を振り切るかのように愛馬の馬腹を蹴った。
 疾風が走り出した瞬間に手綱を放し、流れる動きで箙から矢を抜き取り、番える。
 愛馬の足ならば、馬場を駆け抜けるのに要する時は呼吸十拍ほど。足並みは、緩い地面に左右されることなく常と同じものだ。
 慣れた感覚の中で、泰盛の目には風に揺れる的がはっきりと捉えられる。キリ、と弦がしなる音を耳元に、上体を左手にひねった。駆け抜ける一瞬、絶妙の瞬間を逃すことなく矢を放つ。
 小気味のよい乾いた音が響いて、一つ目の笠が大きく揺れた。
 二呼吸置かない間に、二つ目の的は目の前だ。素早く番えられた矢が放たれる。三つ目の笠に見事に矢が突き刺さる頃には、鞍に腰を落ちつけた泰盛の姿が馬場末にあった。
 一瞬おいて、どっと観衆が沸き立った。全ての的を正確に射抜いた射手に、惜しみない喝采が送られる。
「見事だな、泰盛!」
 各の的奉行が、的への的中を示す扇を大きく打ち振られる中、興奮に頬を上気させた幼い将軍の声が響く。
 軽く詰めていた息を吐き出した泰盛は、満足げに笑みを返した。



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